2015年御翼11月号その1

徳川家康とキリシタン、ジュリア・おたあ

   

 徳川家康は、18歳のときに名を元康から家康に改めている。これはカトリックが日本に伝えられてから十一年後のことであり、家康は織田信長との親密な関係から、キリスト教のことは既によく知っていた。つまり、イエスが神の子であり、神こそが全世界の創造主であるという教えも知っていた。自分で考えたか、信長のアイデアだったかは分からないが、「イエス」を「イエス→イエアス→イエヤス」ともじって「家康」とした可能性はある。その後、天下を握った家康は、キリシタンが将軍をも恐れずに神に従うことを知り、キリスト教を迫害するようになる。家康は、イエス様を主として慕っていたのではなく、天下統一のために、神の子の名を利用したと言えそうである。
 そんな家康が、長年に渡って恋い慕ったキリシタン女性がいた。豊臣秀吉が朝鮮出兵(1592〜93 文禄の役(ぶんろくのえき)―朝鮮侵略)を行った際、現在の北朝鮮、平壌近郊より日本に連れられてきた朝鮮人の娘である(彼女の年齢、実名・家系は不明)。当時5歳くらいであったと推測されている幼女は、キリシタン大名・小西(こにし)行長(ゆきなが)の夫人ジュスタ(洗礼名)のもとに預けられて寵愛(ちょうあい)を受け、やがて洗礼を受けて「おたあ・ジュリア」と呼ばれるようになる(「ジュリア」は洗礼名、「おたあ」は通称で、「捕らわれた」という意味の朝鮮語「ワトッター」が日本語的になまったという説がある)。 
 行長が関ヶ原の戦いに敗れ、処刑されると、ジュリアは江戸城の大奥(将軍の妻や妾(めかけ)、女中が暮らす場所)で、徳川家康に侍女(身分の高い人に仕え、身の回りの世話をする女)として仕えさせられる。彼女は、一日の仕事を終えると夜に祈祷し、聖書を読み、他の侍女や家臣たちをキリスト教信仰に導いたという。ジュリアはしばしば江戸城を抜け出し、教会のミサに参列していたが、初めて江戸の教会に来たとき、司祭は彼女を聖餐式に参加させなかった。それは、ジュリアが大奥で将軍にもてあそばれている汚れた女性だと思ったからである。「あなたは、『神の戒め』をご存知ですか? 神は、私たちに、『みだらな行いをしてはならない』と、教えています」司祭が言うと、ジュリアは次のように答えたと、ムニョス神父は記している。
 「はい。知っております。神父さまのおっしゃるような女性が、大奥にはたくさんおります。もし大御所(家康のこと)が、他の女性たちを呼ぶように、私をご自分の部屋へ呼んだとしても、私はそれから逃れます。もしできない場合には、大御所の希望を承諾するよりも、殺されることを選びます」と。
 キリシタン禁教令を出すと家康は、ジュリアと他の二人のキリシタンに改宗を迫る。しかし、ジュリアは、「家康様からは確かに多くの恩を受けました。しかし神様から比べ物にならないほどの多くの恩を受けたのです。神様を裏切る事は決してできません。家康の側女となるよりは殺されることを選びます」と宣教師に明言している。家康は激怒するが、彼女を失いたくなかったので、伊豆大島に島流しにした。このとき彼女は二十五、六歳だとされるが、大奥から持ってきた衣服をみな貧しい人々に分け与えたという。約一か月後、更に南方の新島に流され、最後に神津島(こうづしま)に流される。三度も遠島処分にされたのは、その都度赦免と引換えに家康への恭順(きょうじゅん)を求められ、断り続けた結果であろう。島流しにあった場合、精神障害になる者も数多くいた。ところがジュリアは、島で見捨てられた弱者や病人の保護や、自暴自棄になった若い流人の世話をした。結果多くの島民がキリスト教に入信していったという。
 ジュリアは神津島で召され、流人(るにん)墓地(ぼち)に丁寧に葬られたとされていた。ところが、家康の死後、ジュリアは神津島の流刑を四年で終えて、長崎、大阪に移り住んで、極貧の生活の中、教会の手助けをしていたことが神父たちの手紙から判明している。
 ジュリア・おたあは、幼少時期に日本人によって父母を殺され、故郷から無理やり異郷の地に追いやられ、さらには無実の罪で流罪にされた。それでも彼女は、境遇を嘆くことなく、高潔な生き方を貫き通し、愛と希望を他の人々に与え続けた。この人生の秘訣は、「イエス様が私の代わりに十字架にかかり、私が犯した過ちに対する全ての刑罰を受けてくださった」という赦しの信仰にある。

 自分の権力のために、イエスの名までも利用し、天下を治めた家康、それに対し、謙遜な信仰により感謝を以て命を恵みの主に献げていたのがジュリアである。永遠の命(神の性質をもった命)を与えられ神の子として歴史に名を残したのがキリシタン・ジュリアなのだ

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